日本の事例


[ Follow Ups ] [ Post Followup ] [ HANBoard version 2 ] [ FAQ ]

Posted by 金明秀 on April 10, 1997 at 02:21:48:

In Reply to: Re: ドイツの事例 posted by 日吉十郎 on April 09, 1997 at 22:47:22:

:  ドイツ事情をとても詳しく紹介していただきまして、本当に有り難うございました。
:  もう少しは進んでいるものかと期待していたので、その現状は、やや期待はずれではありました。


 そうですね。マスコミの誤報や見込み報道などの影響もあって,ドイツをこの問題の先進地域に含めるような主張はかなり多いです。

 でも,EU諸国は一般に進みすぎていることが多くてあんまり参考になりませんが,ドイツの場合はむしろ,日本との類似点が多く,それなりにリアリティがあるように思います。


: 『トルコ人が市の選挙人名簿への登録を求めた行政訴訟 (84年)
: の二審では,請求は棄却はするけど「違憲ではない」とされたこと
: を受けて、89年には,ハンブルクや別のある州でも州内各地の選挙
: 権がある程度は認められるようになったものが、』
: (この素早さは地方分権のおかげだと思います)、
: 『東西統一をさかいに揺り戻しがあり、上記の選挙法改正につい
: て,10月末(91年になるのでしょうか)に連邦憲法裁判所が違憲と
: 判断し改正法は効力を停止した。』


 最高裁にあたる連邦憲法裁判所の判決は,統一直後の90年10月(たしか31日)のことです。


:  憲法の条文などいかようにでも解釈可能なものではありましょう
: から、不思議なことはありませんが、つまるところ、84年の二審判
: 断と91年(?)の連邦憲法裁判所(日本の最高裁に相当のものでしょ
: うか)の憲法判断が全く違っているわけですね。


 そのとおりです。90年10月までは,それまでの憲法の解釈の枠内で,外国人に参政権を付与できるという大きな流れができていたようです。まぁ,その流れが大きかったからこそ反動を呼んだわけでしょう。ドイツでは,戦後半世紀+民族統一という節目において,民族的自尊心を強めるとともにやや保守回帰しました。戦争の反省が足らなかった旧東ドイツ地域では,その傾向がより強いという主張もあります。


:  さて、しつこくて嫌がられはしないかと心配しつつ、もう一つだ
: け質問させて下さい。日本の場合は、外国人に地方参政権を認める
: ことが違憲になるとは、私は思っていなかったのですが、ドイツ同
: 様の違憲判断が出る可能性も無くは無いのでしょうか? 
:  お忙しければ、この可能性の有無についてのみで結構ですので、
: 明秀さんのご意見をお聞かせ下さい。
:  違憲の可能性が有るとすれば、憲法改正も視野に入れる必要があ
: りますね。これは閾が高い。


 「しきい」の漢字に職業性が…(^_^;)

 さて,そのことについて,じつは前回の投稿でさりげなく書いていたんですが,今回は日本のできごとを簡単にまとめておきたいと思います。

 在日韓朝鮮人を中心とする定住外国人の地方参政権について議論されはじめたのは,じつはけっこう古く,70年代にさかのぼります。70年代というと,金嬉老事件(68年)や日立就職差別裁判(71年?)などのキッカケもあって,在日がただの外国人でなく,日本のなかのマイノリティだということがはじめて認識されはじめた時期にあたります。

 しかしそのころはまだ,北九州の崔昌華氏など一部の活動家による先鋭的な主張でしかありませんでした。この問題が広く認知され,活発に議論されるようになったのは,80年代の末に入ってからです。議論の発端になったのは,日韓基本条約見直し問題(当時,91年問題と呼ばれていました)です。

 91年問題自体を解説すると長くなりますが,ようするに,「協定三世」(実質的には在日4世以降にあたる)の滞在地位を話し合う問題です。65年の日韓条約締結時には先延ばしされていたんですね。その日韓の話し合いのなかで,在日の民族団体の要望を受けるかたちで,指紋押捺廃止や地方参政権の問題が韓国側から提起されました。

 これが議論に火を付ける形で,88〜90年頃でしょうか,在日の民族団体や弁護士などから,旧植民地出身者や定住外国人の地方参政権を認めるような改正法案が提起されはじめます。

 そして89〜91年には,福井や大阪で地方参政権を求める訴訟があいつぎます。

 結局,91年問題は指紋押捺の廃止を象徴的な解決とすることで決着がつき,地方参政権は認められませんでしたが,議論にはさらに拍車がかかっていきます。

 92年には,関西大学講師の李英和氏が門前払い覚悟の選挙活動を開始。国政選挙に立候補のポーズを取るなど,議論を混ぜっ返しつつも,それなりに盛り上げていきます。

 ついで93年9月,大阪府岸和田市議会が「定住外国人に地方参政権を」との要望を決議します。これはマスコミで大きく取り上げられ,全国的にかなりのショックを引き起こしました。当初は賛否両論ありましたが,他の地方議会でも同様の決議をおこなうところがしだい出てきます。

 94年1月には「さきがけ島根」が,支部設立にあたって在日外国人の入党を認めるように規約を制定。これも大きく報道され,かなりの反響を呼びました。自民党や社会党のなかに,定住外国人の参政権にかんする議論ががでてきたのは,おそらくこれがキッカケじゃなかったかと思います。その後,両党のなかにこの問題の研究会も出てきます(時期は覚えていません)。

 そして,94年10月には,福井地裁の第一審判決において,「外国人に参政権を認めるかどうかは立法政策の問題」(だから請求は棄却するけど)「市町村レベルでの選挙権を一定の外国人に認めることは憲法の許容するところ」という判断が下されます。(ただ,「憲法で保障されたものではない」とも。)

 そして,議論を決定的に方向付けたのは,95年2月の最高裁判所判決です。これは,素人目には福井地裁の判決とかなり似ています。例によって請求は棄却するものの,「法律で地方公共団体の選挙権を付与する措置を講ずることは憲法上,禁止されていない」というものです。(ただし,「そのような措置を講じないからといって違憲の問題を生ずるものでもない」とも。) つまり,日本の最高裁はドイツとは逆に,外国人の地方参政権を合憲だと判断したわけです。あとどうするかは,立法府の問題だ,と。

 この最高裁判決の影響はすさまじく,全国各地の自治体で定住外国人の地方選挙権を求める意見書採択が活発化しました。96年初頭には1000の大台を突破。96年4月には1190議会,そして現在は全国自治体の約半数がそういった議決をおこなっています。

 94〜95年に実施された議員アンケートでも,自民党や新進党の一部をのぞいておおむね好意的な反応がありましたので,ごく近いうちに選挙法の改正がなされるのではないかという観測が支配的になっていました。

 が,政党政治というのは不思議なもので,議員個人にたいするアンケートでは外国人の地方参政権付与に賛成する人が過半数を超えていても,実際の政治で過半数を得ることはなく,たしか,正式に議案として提出されてもいないはずです。

 その後は,ご存じのとおり,政局が混迷をきわめ,論点としてもいわゆる教科書論争や地方公務就任権問題などに焦点が移行してしまったため,地方参政権問題についての議論はほとんど議題にさえ上っていません。




Follow Ups:



Post a Followup

Name:
E-Mail:

Subject:

Comments:

Optional Link URL:
Link Title:
Optional Image URL:


[ Follow Ups ] [ Post Followup ] [ HANBoard version 2 ] [ FAQ ]