Posted by 大塚 恒平 on April 07, 1997 at 18:11:15:
In Reply to: Re: 国籍と参政権 posted by 金明秀 on April 04, 1997 at 20:23:44:
: : やはり日本側が変わるべき点は多々認めながらも、最終的には在日
: : は国籍を取得して朝鮮系日本人になるべきだという私に対し、明秀
: : さんはそうかもしれないが市民権としての国籍という発想を日本人
: : が持つようになるにはまだ幾多の困難があるのに対し、在日外国人
: : への権利拡大はもう流れは出てきているのだと言われ、結局長期的
: : には国籍取得のできる状況へ日本側の意識を改革していく戦略を考
: : えに入れながらも、短期的には外国人への権利拡大を戦術としてい
: : くべきだといった感じで話が落ち着きましたよね。
: かつての議論を,かなり正確にまとめてくれていますね。僕の主張のどこが一般の在日とはちがうかということでいうと,「最終的には在日は国籍を取得して朝鮮系日本人になるべきだ」という意見に留保付きであっても賛同する時点で,もはや一般的ではありません。
その一般的でないというのは、現時点での日本の現状ではとても国籍取得(=帰化)などできないという事でしょうか?
あるいは、日本の今後のあらゆる変化に関わらず、日本の国籍など取る気は決してないと一般的には考えられているの
でしょうか?
こういう議論をする場合に、上の書き方での「最終的には」という言葉で、在日はどこまでをイメージするのでしょう?
本当の意味で未来永劫、子孫末代まで外国籍のままでいるべきだと考えているのでしょうか?
そうであるのなら、子孫達のあるべき日本での生活状況はどう考えられているのでしょう?
考えていないのであれば無責任に過ぎると思います。
それとも、未来にはいつかみんな朝鮮系日本人になると感じながらも、その選択を自分達の世代でする気はない
(たとえ将来日本に変化があったとしても、これまでの経過を考えれば自分がその選択をするのは屈辱的だ)と
考えているのでしょうか?
もしくは、現状の日本では国籍を取る気はない、日本側に変化があったら取るかもしれないがまず今の日本を
見る限り変化する兆しは見て取れないから、まず国籍を取る気はないという事でしょうか?
まあ人それぞれでしょうが、一般イメージとしてどういった考えが主流なのか、それによって今後の議論も変わってくると思います。
またこれを考える際に、先に挙げたホームページでの議論で、私は次の様に書きましたが、
:川崎ふれあい館の李仁夏さんなんかは、戦後処理の一環として今からでも在日の法的地位を「サンフランシス
:コ講和条約前」の状況に引き戻して、その上であらためて在日自身に選択権を与えるべきだと主張されている
:わけですけど。
:私もこの意見に賛成です。しかし今まで日本側が在日を他民族ながら同じ国民として受け入れる下地がな
:かったために、在日は外国人として生き続けざるを得なかったし、よって生きていくために外国人としての権
:利拡大を叫ばざるを得なかった。その状況が長いうちに、手段と目的が入れ替わる人も出てきますし、先の
:李仁夏さんなんかもしごく真っ当な意見を言われているにも関わらず「同化主義者か」と批判される事もある
:と言われていましたけどね。
この感情面で「手段と目的が入れ替わっている人」に対する理解も必要だし、その立場に立って物を考える
事も必要だけど、こういう人達もいざ日本側に画期的変化があればそれまでは「日本側がどう変わろうと帰化
など絶対しない」と言っていた人でも考えを変えて民族性を保ったままの国籍取得へと考えを変えられるかも
しれないし、実際にそういう動きがない中で、感情的に「自分は何があっても国籍を変えない」と宣言されて
いる人でも、いざ流れが出来れば考えを変える方も出てくると思いますが、この辺はどうお考えでしょうか。
そういった柔軟性は在日社会も十分に持っていると思うのですが。
また、先の明秀さんとの議論では、民族性を保持した上での国籍取得制度を作る方が定住外国人への権利拡大
より困難だという結論でしたが、最近別の場での議論で感じる限りでは、一般の日本人は民族性を保持した上で
の国籍取得制度より定住外国人への権利拡大の方に大きく違和感を覚える様に思います。
私と議論してきた多くの論者も、外国人への権利拡大は受け入れられなくても、民族名などを保ったままで国籍
は取得できるべきだという人は多くいました。
もっとも、その内の多くが日本では既にそういうシステムが完備されていると考える、明秀さんの言うような
:日本の国籍システムの問題点を知らない(もしくは無視する)人
である事が問題なのかもしれませんが...。
しかしこれは、逆に言えばそういう日本人側のある意味素直な反応を突く形で、今の帰化制度の矛盾点等をついて
いけば、日本人の理解が得られてこちらの方が大きな流れになるといった事は考えられないでしょうか?
明秀さんとは「民族性を保持した上での国籍取得制度」は長期的戦略と話しましたが、しかし現在のところ
そちらの方向性へは私の知る限り在日はほとんどこうしたオプションを採っていないように思うのですが、
ここで日本人側のこうした反応に乗ずる形でたとえ小さくとも何らかの行動を起こせば、こちらの方向に
かなりの進展が期待出来ないでしょうか。
もっとも、単に民族名を保ったまま国籍を取れればいいってな問題ではない、民族教育の権利とかそういっ
た問題も絡んでくるのが「民族性を保持した上での国籍取得」ですから、そこまでいけば日本人は反発する
のかもしれないし、それに解決への流れが出来ているというのは一般日本人の反応よりも日本の行政機関など
の反応の方が重要なのだとすれば、定住外国人への地方参政権付与は96年に最高裁判所によって認められてい
るのだし、(最近「在日をやめなさい」で知りました。在日ML等でとっくに流れていたら、すみません、
見逃していました)やはり外国人への権利拡大の方が「開かれた道」かもしれませんし、その辺はよくわかり
ませんが...。
: たとえば,池東旭さんの『在日をやめなさい』(THE MASSADA)を帰りの飛行機のなかで読みましたが,「てめー,何様のつもりだ? よっけーなお世話なんだよ!」と立腹しながらも,主張そのものについては,じつは,僕のそれと根元的な部分で非常に近似していました。いつもの僕の主張は,第三者的な視点で読むとここまで腹立たしいものだったのかと,ちょっと反省しました(^_^;)。僕の主張を困惑しながら聞いていた年輩の運動家たちは,内心,すっげぇ怒ってたんじゃないかなぁとか。
嫌な言い方をすると、自己批判、自己反省は真摯に受け止められても、他人に指摘されるとやっぱり
腹が立つということでしょうか。
それでもまだ私の読む限り、池さんは在日の立場にかなり理解を示しているように思いましたが、何も理解も
知識もない、自分達側の問題点も知らない一部の日本人に鬼の首でも獲ったように問題点を論われるのは、腹が
立つ事だろうとお察しいたします。
最近の日本人は自己批判・自己反省は「自虐的」等といって排除するのだけれど...外部からの批判なら真摯に
受け止められるのかな?なんて。
まあそれはいいとして、私には「在日をやめなさい」は中々いい本のように思えました。
ただ最終章の方で、在日が現状のままでは国籍を取れない、取る気になれない日本側の問題点は理解している
はずなのに、結局国籍を取らないのは在日側が悪い、甘えているといった論調になるのには疑問を感じました
が...(まあ苦言の書だから仕方ないのかも)。
この投稿の上の方で私が書いているように、日本側が変わることなど有り得ないという思い込みの元に、だか
ら自分達も未来永劫日本国籍をとる事はないのだと考えてしまう(考えざるを得ない)在日に、状況が変われば
別の選択肢もあるのだという事を指摘する意味においては、私はいい本だったと思えるのですが。
考えをまとめずに書き始めたので訳わかんない文になってたらごめんなさい。
全体見直してません。
それでは。